【プロフィール】

コロナ禍から生まれた、世界中の人々をオンライン上で占う令和(ニュータイプ)占い師です。

大阪で生まれ育ち、大学を出て会社員に。

趣味優先の自由な生活を突き詰めた結果、2018年にはアイルランドワーホリへ。

2019年にアイルランド人と結婚し、夢のアイルランド暮らしを手に入れる。

フリーランスとしてネットショップをはじめたところ、コロナ禍で大ダメージ。

それを機に、一念発起で占い師の道へ進むことに。

ピンチのときにどういう考え方でどうやって乗り越えてきたのか、どんな思いで今占い師をしているのか、そういったことをつらつらと書いています。

こんなに詳しいプロフィールを書いている占い師は、なかなかいないかもしれません。(誰が興味あるねんと言うレベルで書いてる)

誰の占いを受けようか迷っている方は、「この占い師ってどんな人なんだろう?信用できるのかな?本音を打ち明けても大丈夫な人なのかな?」といったことに不安を感じておられるかもしれません。


自分のプライベートな悩みを第三者に開示するのですから、なんだかよくわからない人に相談しようとは思いませんよね。

なので、私がどういう人間なのか、どういう経験をしてきたのかを、できるだけ詳しく書きました。
占いを受けようか迷っている方にとって、1つの判断材料になれば幸いです。

※占い師になってからの私の話は、【コロナめ…そして占い師になった】という項目からになります。
占い師としてのあり方については、最後の【令和占い師ならではのメリットとは】という項目に書いているので、そこだけ読んで頂いても大丈夫です。

【目立たない小中学時代】

学生時代の私は本当におとなしくて目立たない子供でした。
小中高時代の同級生で私のことを覚えている人はきっと少ないはず。

小学生のときは、目立つのが嫌いで恥ずかしがり屋の人見知りでした。


大人になってから母に聞かされた話で覚えているのは、ランドセル選びに関すること。
ランドセルを買いに行ったとき、母はピンクやオレンジがかわいいからそれにしたら、と私に勧めたら私は「絶対に赤がいい」と言って何の変哲もない赤のランドセルを選んだそうです。

赤色は全然好きじゃなかったので、私はただ単に目立ちたくないという理由でそれを選んでいました。
今の小学生は赤と黒に限らずさまざまな色のランドセルを背負っているのを見かけますが、当時は学年で1人2人だけ違う色のランドセルの子がいる、という状況でした。

案の定、オレンジのランドセルの子はランドセルの色が変という理由でからかわれていました。
人と違うこと(しかもそんなしょうもないこと)でからかわれるなんて意味不明ですが、私はそれを見たときにやっぱり赤にして良かったと、ほっとしたことは覚えています。

また、家庭科の授業で使う裁縫セットを購入するとき、私は他の誰も選ばないデザインの裁縫箱を選んでしまいました。学年でその裁縫箱を選んだのは私だけだったと思います。


そのことがとても嫌で隠しながら使っていましたが、あるときクラスの女の子から「うわー変な裁縫箱!だっさー!」と笑われました。
私としては気に入って選んだ裁縫箱だったのに、そんな風に言われて傷つきました。(別にださくない普通の裁縫箱だと思います。誰も選んでないけど)

その裁縫箱はとても使い勝手がいいのでアイルランドに持ってきて未だに使っていますが、ときどきその時の嫌な気持ちを思い出します。

人と違うこと、目立つことは当時の私にとって回避すべきことでした。

目立つのは嫌だし恥ずかしがり屋の性格なので、授業ではほぼ手を挙げたことはありませんでした。
手を挙げて発表する、みんなに注目される、答えを間違ったら恥ずかしいということで何の得もありません。


通知表にはいつも消極的だと書かれました。

「答えがわかってるくせになんで手を挙げないんだ」と先生に怒られることもありましたが、怒られたって変わりませんでした。


中学高校になると強制的に出席番号順で当てられるので、むしろ気楽でした。
問題の答えがわからないから黙っているのではなく「積極的に発言する」のがずっと苦手な学生時代でした。

目立ちたくないのに、人と違うことをやってしまうことは裁縫箱に限らず度々ありました。


音楽家の肖像画を描く宿題ではみんなバッハやベートーベンなど有名人を描いているのに、私だけ学年で誰も描いてないマイナー音楽家を描く。
道徳の授業で明確な答えのない問題について話し合うときに、私だけクラス全員と違う選択肢を選んでいるなど。

周りにお前は変だと言われることもあれば、気づかれずに済むこともありましたが、そのたびに「また自分だけ変なことしてるやん…」とへこんでいました。
そういったエピソードは今でも色々覚えてるので、本当に当時は人と違うことをしてしまうことが嫌だったんだと感じます。

とはいえ、たまに1人だけ違ったことをしてしまうことがあるだけで、特段変わった生徒ではなかったので普通に目立たず過ごしていました。


少ないながらも同じような大人しい友達数人と楽しく遊んでいました。
クラス替えがあるたびに新しいクラスで友達ができるかどうか、緊張はしていました。
受け身なので自分から友達を作りにいく、ということはできませんでしたが、幸い声をかけてもらえていつも友達はできていました。

【やたらと占い好きな小学生】

思えば小学生の頃から占いは好きでした。
小学生のときに占いやおまじないをしたことがある人は多いかもしれません。
私はその中でも特に占いにのめり込んでいた方かと思います。

当時は動物占いが流行っていました。
私は動物占い関連の本を2冊持っていて、自分や家族、友達がどのキャラクターに当てはまるのかを調べては、「あの子はこういう性格だよな~」と1人で楽しんでいました。


そのせいか人の生年月日を覚えるのが得意で、卒業以来交流のない友達や、友達が好きだった歌手の誕生日を未だに覚えています。
今でもその日になったら今日は○○ちゃんの誕生日だ、と密かにお祝いしてたりします。
相手は私のことなどもう忘れてるだろうに…(笑)

ちなみに私は動物占いだと「束縛を嫌う黒ひょう」です。
その黒ひょうの絵はネットで調べても出てきますが、じとっとした目で陰気な表情をしていて、全然かわいくないやんとがっかりしたのを覚えています。


当時は小学生だったので「束縛」という言葉の意味もよくわかっていませんでした。
束縛も自由も意識する年齢ではなかったので、自分が束縛されたくないタイプかどうかなんて知る由もなく。

でも、今現在の私を一言で表すと、まさに「束縛を嫌う」という言葉がぴったり!!


好きなことを好きなときにしたい、仕事や恋人など他人のペースに合わせるのが苦手、という自分の性格は歳を重ねるごとに浮彫になっていくのであった…
海外に飛び出したのも結局「もっと自由に好きなことがしたい」という思いがあったからだと、あとで自分を分析してみて気づきました。

そのほかには細木数子の本も当時はとても人気でした。
同級生でその話をしている友達はいませんでしたが、母が毎年私の分まで本を買っていたので、熱心に読んでいました。
(大人向けの本なので、あんまり内容はよくわかってなかった)

母は「月美は水星人マイナスだから、自立していて一代で成功するタイプ」だとよく言っていました。
やはり当時は小学生なので、自立とか言われてもピンと来ませんでしたが、なんとなく自分の会社を持つような資質があるんだろう、ぐらいに思っていました。

でも当時の私の将来の夢は公務員(市役所職員)です。
自営業をしようなんて考えてもいませんでした。
女だから結婚して家庭に入ってパートタイムでちょっと働けばいい、自分でビジネスをやるなんてめんどくさいし難しいし…という感覚でした。


今となっては海外で自営業をしているので、その占いもあながち間違っていなかったのかもしれません。

動物占い、細木数子以外では姓名判断や夢占いの本も読んでいました。
夢占いの本は、ボロボロになるまで読み込んでいました。


なにか夢を見たらその夢のキーワードを本で検索する、ということを日常的に行っていました。
今でも気になる夢を見た時は、起きたらスマホで調べるようにしています。
金運アップの夢を見て実際に臨時収入をゲットした、という経験はないけど(笑)

夢といえば、タロット占い師になろうとタロットの勉強を一生懸命していた時には、そのカードの絵柄が動きだす夢を見ました。
夢の中で動いているカードのキャラクターを見て「あ~このカードはこういう解釈をすればいいのか」と考えていたのは不思議な体験でした。
まるで「このカードを出すときはこういう意味だから、そういう意味として受け取ってね」と意識下の自分(私)に無意識下の自分(ハイヤーセルフ)が教えているような感覚でした。
高校時代も夢の中でテスト勉強ができていればもっと良い点とれたのに…

占いに限らず、幽霊やUFO、都市伝説といった不思議な話も好きでした。
目に見えない力、スピリチュアルなことについては、本当に昔から関心が強かったです。

【はじめて占ってもらった高校時代・大学受験の悲劇】

高校生の時にはじめて占い師に対面で占ってもらいました。


近所で評判の占い師に母が鑑定してもらって当たっていたということで、私も占ってもらうことになりました。
その占い師さんは霊感があり、幽霊が見えていてお祓いなどもしているらしく、占い方法は霊視+タロットでした。

当時はタロットカードというものがあるというぐらいの知識しかありませんでした。
目の前で自分のことを占われるという経験ははじめてだったので、興味津々でタロットカードが展開される様子を見ていました。
タロットカードを混ぜて展開して一枚ずつ読み取っている姿は、不思議でなんだかかっこいいと思いました。


特殊な能力を持っている人はそれを仕事にできていいな、と羨ましくも感じました。

その占い自体はよく当たっていたと思います。


大学受験を控えた冬だったので、「もし本命大学に受からなかったら浪人すべきか、現役で滑り止め大学に行くべきか」という内容を尋ねました。


「あなたは浪人しても勉強しないで遊ぶから、滑り止めの大学に行きなさい」と言われました。
その言葉を聞いたとき、「たしかにその通りだな」とめちゃくちゃ納得している自分がいました。
浪人したら予備校に通いながらバイトして遊びほうけて、本命どころか現役時代に受かった滑り止めすら落ちる自分が想像できました。

私は興味のないことに関して、自主的に勉強することができない人間です。
自由に時間が使える1年間の間に、必死に勉強する訳がありません。


自分の人間性なんて自分が一番よくわかっているはずなのに、指摘されるまでそのことに気づいていませんでした。

そもそも私はその本命大学にそれほど執着もしていないことにも気づきました。
国公立で学費が安いから、というだけでそこを本命にしていました。
ありがたいことに、奨学金と親の援助で私立大学でも通えるので、浪人はしないことに決めました。

私は人生において大事なことを決めなければならないとき、いつも占いに頼っています。
そういう風になったのは、占いによって自分の方向性がクリアになったという、最初のこの占い経験があったからです。

大学受験については、本命の国公立大学は落ちて、私大に入学することになりました。
ちなみに滑り止めの私大にも落ちたので、滑り止めの滑り止めに通うことになりました(笑)

滑り止めの大学は模試だとA判定だったので、落ちるなどとは思っておらず、落ちたとわかったときにはとても衝撃的でした。
ショックというより、信じられない思いでいっぱいでした。
本命大学はもともと受かる見込みが少なかったので「まあそうだよな」ぐらいの気持ちだったけど、滑り止めで滑り止まらんとは予想外。

慌ててさらにランクの低い私立大学でいくつもの学部学科を併願で受けました。
もう浪人する気は毛頭にもなかったので、現役合格するために必死でした。

その大学は見事に受けた学部学科すべて受かったので、その中から法学部を選びました。
本当は(本命か滑り止めで受かってたら)文学部に入りたかったけど、こんなにランクの低い大学で将来性のない学部に入ったら終わる、という思いで全く興味ない学部に入ることに。
公務員志望だったので、法学部はそのためにはもってこいの学部。

恥ずかしくて同級生にこの大学に行ってるなんて言えないな、と思ってたけど、ちゃんと現役合格はできたので気分的には前向きでした。
本命も滑り止めも落ちたくせに、滑り止めの滑り止め大学の学部学科すべて受かったということでご機嫌になっていました。

「本命大学の文学部に入るよりも、この大学の法学部の方が将来の夢(公務員になる)への近道じゃないか!」とポジティブに考えていました。


無理してレベルの高い高校に入ったせいで、いつも成績は底辺争いをしていて自信がなくなっていたので、逆に自分のレベルより低い大学だと授業が簡単でいいかもな~と楽観的に考えてもいました。

「本命大学に落ちたけど、逆にラッキー」
当時からそういう考え方でした。

私が大学受験で落ちたり受かったり右往左往しているとき、親はとくに何も口出ししませんでした。
本命の国公立大学だって親に言われて決めたのではなく、私が授業料安い方がいいからと考えて決めたことでした。
併願でいくつも学部を受けたときは、受験料だけで何十万円もかかったのに、親は何も言わずに払ってくれました。
奨学金だけではまかなえない授業料も払ってくれ、公務員試験用の補講授業代も出してくれました。
私がやりたいことを反対せず、いつも必要な援助をしてくれていた親に感謝しています。

【占い師デビュー!?趣味に生きる大学時代】

結果的にはその大学に通ってよかったです。
授業は思った通りカンタンで、試験前の一夜漬けだけで良い成績が取れました。

部活に入っていましたが、その大学だからこそ、楽しんで活動できたんだと思います。
(私が志望していた大学だと、その部活は未経験者不可だとあとで知りました。)

通学途中に都会を通るので、難波で下車して買い物するのが大好きでした。
友達と都会をぶらぶらすることもありましたが、ほとんどは1人で徘徊です。
大学時代は1人でカラオケに行ったり、1人で映画を観に行ったりしていました。

高校3年生の冬に競馬にめちゃくちゃはまって(←このせいで受験失敗した)、大学生になってからは1人で競馬場にも頻繁に通っていました。

ギャンブルには一切興味がなく、ただただ好きな馬の写真を撮るのに夢中でした。
私は多趣味で飽きっぽい性格なので、ここまでひとつのことにのめりこんだのは初めてのことでした。
(そして現在は競馬のためにアイルランドに永住までしています。)

一眼レフカメラを買って、大学2年生の頃には本格的に好きな馬を追っかけて地方遠征もしていました。


阪神競馬の翌日に東京競馬場に行ったり、春は福島、夏は函館、秋は中京、冬は小倉という具合にひたすら全国各地を飛び回っていました。
北海道に昼到着して、競馬を見て当日に帰る(往復6万円)という弾丸トラベルは当たり前。
せっかく北海道に来たんだから1泊して観光、なんて気は起きませんでした。
1人で来ているし、もともと観光旅行に興味がなかったからです。

ストイックに好きな馬を追いかけていました。
馬だから変わっていると思われがちですが、アイドルやバンドの追っかけをしている人たちもそんな感じだと思います。

日本の中央競馬場は、大学生の間に札幌と新潟以外すべて行きました。
旅行に興味がないから、競馬を好きになっていなかったら海外はおろか今でも地元からほとんど出ていなかっただろう…


インドアなので休日も競馬がなかったら一歩も外に出ません。
家の中でいくらでも楽しめる趣味があるから、服を着替えて外に出るのめんどくさい。
競馬のおかげで、適度に出かけて健康的に生活できている気がします。

また、占いに関しては、大学1年生の時にはじめて占い師として(?)うれしい体験がありました。

その頃私は手相占いにはまっていて、手相占いの本を何冊か読んでいました。
(手相占いで世界一有名な占い師はアイルランド人なのですが、その人の本も読んでいました。アイルランドに来た時にそのことを知って、なんだか不思議な縁を感じました。)

最初は身近な友達の手相を見て遊んでいたのですが、いつしか部活内でも私が手相占いができると噂になって、結果何十人もの手相を見ることになりました。その部活は80人ぐらいの大所帯でした。


しゃべったことのない先輩や、たまたまその場にいたOBさんなど、普段関わりがほとんどない人と占いを通じて会話することができました。

「30歳あたりで結婚して離婚するという線があります」「えー!」「お前離婚するんかー!」と一笑い起きたりして、手相占いは盛り上がりました。
なんだか自分が人気者になったような気分でした。


「私の手相も見て~」「すごい!ありがとう!」とちやほやされて、感謝までしてもらえる経験なんてこれまでありませんでした。

何十人も占っているとデータが取れてくるので、占っていても楽しかったです。
「この人は社交的だからあの線あるだろうな、やっぱりあった!」という風に。
実家がお金持ちの先輩何人かを占ったとき、みんな共通して財運線がはっきり出ていたのも興味深かったです。
手相はその人の人生を表してるのかも、と思ったり。

手相占いは、私にとっても部活内でも一時的なブームだったので、3ヵ月ほどでそのブームは去りました。
私も遊びでやっていたので、手相占いを極めようという気もなく、その後誰かの手相を見ることもなくなりました。

部活の新入生が数十人いた中で、私は大人しい人見知りなので基本的には全然目立ちませんが、「競馬好きで手相占いができる変わり者」ということで割と先輩たちから覚えてもらえました。


占いを通して「こいつはしゃべってみると面白い奴なんだな」と知ってもらえ、可愛がってもらえたので、とても居心地が良かったです。

部活の夏合宿では、新入生男子が「食堂に集まってください」という放送を面白おかしくやらなければならない、というキツいしきたりがありました。


男子たちは見事にギャグがウケず撃沈している中で、私は立候補して女子で唯一そのお笑い放送に参戦し、爆笑をかっさらいました。
放送後に数々の先輩から「あの放送めっちゃおもしろかった!」と褒めていただき、大勢の人を楽しませるという達成感も味わいました。

私のネタがウケたのも、私に変わり者のイメージが定着していたからで、私もそのことを認識していたから、恥ずかしがらず自由にのびのびとできたのだと思います。

高校生までは自分の友達数人という狭いコミュニティの中で友達を笑かす、ということをやっていましたが、大学生になってからは自分とは違ったタイプの人たちとの関わりができました。
その中で自分らしく振る舞う、人を楽しませるというのは新鮮で楽しかったです。

競馬にはまって遠征するようになったのを機に、どんどん本来の自分が出てきました。
人に合わせてみんなでワイワイするより、1人で自由に行動することに充実感を覚えていました。

小学生の頃は何の疑問もなく周囲に合わせていましたが、中学生以降はどんどん団体行動ができない人になっていきました。


中高時代の遠足や林間学校、修学旅行、体育祭、文化祭など、行事という行事は大抵休みました。
大好きな友達はいたけど、遠足なんかに参加するのは時間の無駄だ、と思っていました。
興味ない場所に行く時間があったら、家でごろごろ漫画でも読んでいる方がよっぽど楽しい、というひねくれたガキ。

母は、私が行かないと言ったら全く止めずに、学校に休みの連絡を入れてくれました。
親が違えば強制的に行かされていたかもしれないので、本当に理解があるというか、いつだって私の好きにさせてくれていました。

成人式にも行かなかったのですが、行かない代わりに振袖代として母は数万円お小遣いを渡してくれました。
(成人式当日は大学の友達と京都で遊んでいました。)


私は自分の写真を撮るのが大嫌いで、「ブスが振袖着て写真撮って何の意味があるねん。恥さらすだけやん」と思っていました。
今考えると、母親は娘の振袖姿を見たかっただろうな、と思います。
それでも私の気持ちを優先して振袖の代わりにお小遣いをくれました。

私が結婚したとき、結婚式はしなかったのですが、母が「どうしても写真スタジオで新郎新婦の写真を撮ってほしい」と言ってきたので、それには応えることにしました。
ブスとハゲの結婚写真なんて撮ってどうする…と思うけど、これも親孝行になるならと考えられるようになったので自分もちょっとは大人になったかなと思います。

【崖っぷち就活。目指すは上京!逆転の発想で内定ゲット】

自分の好きなことをするのが最優先の私は、大学3年生から通っていた公務員試験向けの特別補講を受けるのを途中でやめます

それまで約10年間、公務員(市役所職員)になることだけが将来の夢でしたが、就職活動を前に私のやりたいことは公務員ではないと気付きました。


公務員になったら、1つの場所に縛られることになる。

私はその当時、競馬に夢中。


競馬場に行くのはもちろんのこと、引退した大好きな馬が山形の個人オーナーに飼われていたので、毎月夜行バスで大阪から17時間かけて会いに行っていました。
そんなことをしていると、東京に住んだ方が山形にも通いやすいし、他の都市の競馬場にも行きやすくなるなーと考えるようになりました。


私が望むのは、公務員としての安定した人生ではなくて、身軽に好きなことができる人生なんだと気づきました。

当時は東京に住んで山形に通えればいい、と考えていましたが、数年後には別のところで別のことをしたくなるのでは、という予感もありました。


そうなったときに、試験を頑張ってパスして市役所職員になっていたら、その地位を捨てるのが惜しくて好きなことを我慢する、という選択肢を選んでしまうかもしれない。

この日は仕事だから競馬場に行けない、と言っている社会人をSNSでたくさん見ました。
私は趣味より仕事を優先する生き方をしたくない、と強く思っています。
なので、10年描き続けた公務員という夢はあっさり諦めました。

そして4年生の春から就職活動スタート。


土日祝休みの東京の民間企業が私の希望でした。
といっても、私は大阪に住んでいて、前期は大学の授業もあったので、そう簡単に東京で就活することは叶いません。
授業の合間をぬって、夜行バスで東京に行っていました。

絶対に東京勤務希望なので、「総合職で数年おきに転勤」「大阪か東京どちらかに配属」みたいなところは選びませんでした。
東京勤務を確実なものにするために、東京にしか会社がない中小企業の中から探すことになり、当然ながらそういうところは大阪で面接会などありません。
1次面接から2次3次、最終面接まですべて自腹で東京まで通わないといけませんでした。

金銭的に大阪と東京を往復できる回数も限られているので、たくさん受けることはできません。
せっかく東京で最終面接まで進んだのに、落ちてまた1から出直し、ということが何回かありました。

その中でも、面接が始まる前から落とす気満々なやる気ない態度だった社長には本当に憤りを感じました。
私は真剣に話していても、全然ちゃんと聞こうとせずに「ふーん」と聞き流され、さっさと面接を切り上げられました。
面接中にもう落ちることはわかっていたので、「なぜ私は落とされるんですか?」と質問したかったけど、そう発言する勇気はありませんでした。
最終面接まで何度も遠く大阪から通ってきたのに、最後の最後にこんな風にあしらわれるなんて、悔しくてたまりませんでした。


最初から落とす気なら、最終面接前に落としといてくれたら無駄に東京まで行かずに済んだのに。
私が面接前から落とすと決められていた理由は、おそらくすでに内定者が決まっていたのだと思います。

私が特に入社したいと思っていた企業は2社あり、1社は最終面接まで進んで落ちました。


正直その企業は、女性の私が受かるのは相当困難だろう、と最初からわかっていました。
それでも憧れの仕事だったので、本気で挑みました。


落ちたのは単純に私の実力不足だというのは当然考えられるとして、それにしても社員の男女比が50:1でほぼ男性しかいない職場です。女性は受かりにくいのではないか、と思わずにはいられませんでした。
本当に入りたいと思っていた企業だったので、私が男だったら少し変わっていたのでは、と無意味なことを考えたりもしました。

この企業に限らず、いくつかの企業は明らかに男性優先or女性優先で内定を出している、と感じられる場面がありました。

ある企業の説明会では、はっきりとは言わないものの誰でも気づくレベルで「うちは男性しか取らないので女性は受けないでくださいね」と暗に言われました。もちろん面接は受けませんでした。


現代の社会において男性のみ、女性のみ、といった形で募集はできないから、男女平等に面接の機会は与えられるけど、実際はしっかり性別によって判断されているんだとわかって、むなしい気持ちになりました。


もちろんそんな企業だけではないし、男性(女性)しかとらないような企業が悪いとも一概に言えません。
ほぼ男性だけの企業でも、優秀な女性だったらちゃんと受かるはずなので、結局は実力社会とも言えます。

ただ私は当時、就活失敗が重なり、東京への遠征費も体力も精神力も削られる中で、女性差別するなんてひどい、と責任転嫁していました。


駅のホームで電車を待っているときに、今飛び込んだらもうしんどい思いをしなくて済む、と一瞬考えたこともあります。
私は割とポジティブな方だと自分で思っていますが、それでも結構追い詰められました。

東京はきついのかもと思って、大阪の企業もいくつか受けていましたが、それもすべて落ちました。


自分は社会に必要ない人材なんだと何度も突きつけられて、本当につらかったです。

大学4年生の7月になっても、まだ私は1つも内定を持っていませんでした。
周りの友達の半分ぐらいは内定が出て、就活を終えていました。
まだ就活が終わっていない友達は、私と同じく焦っていて落ち込んでいました。

そこで私は思いきって就活をやめました。

もう精神的にきつかったし、東京遠征費もあまりなかったので、就活を一旦やめることに決めました。


2月になると大学に通う必要もなくなるので、2月に上京して友達の家に滞在して、そのときにがっつり就活しよう!という計画です。

私の高校時代の友達が東京の大学に通っていたので、その子の家に1ヵ月ほど泊めてもらって就活することにしました。(迷惑な話ですが)
それなら東京と大阪を行ったり来たりしない分、交通費もかかりません。

4月~7月に何十社も受けて1つも内定を取れなかったくせに、2月~3月の卒業間際に就活すれば、きっと成功するという謎の自信がありました。


無職のまま卒業してもいいや、という諦めでなく、2月からで間に合うだろうというポジティブな考えです。

母に東京で働きたいと言った時もやはり反対されず、卒業前にまだ仕事が決まっていなくても特に何も言われませんでした。
母は私なら何とかなるだろう、無職になったらなったでどうにかするだろう、と見守ってくれていました。

就活をやめたので、夏休みから冬まで思いっきり遊びました。


山形の好きな馬のところにも通ったし、競馬場に行ったりゲームしたり、好きなことをしていました。


「今が人生で一番自由なときだ。これからの人生は働いて結婚して子供ができて、こんなに自由に過ごせないんだから」とちょっと切ない感傷に浸っていました。
社会人になってからワーホリに行ってもっと自由な1年を過ごすことになるとは知らずに…

気楽に日雇いバイトもしました。
百均の商品の検品作業などを主にやっていましたが、通常1つの検品にだいたい15秒かかるところを私は7秒でできたので、「あの子めっちゃ速い」とリーダーに一目置かれました。
そのときに、自分は単純作業が得意なんだと気づきました。

人と話すより、1人でもくもくとやる仕事の方が向いているだろうと思っていましたが、それにしても得意でびっくりでした。
ずっと同じ作業をし続けることが苦痛だという人もたくさんいますが、私は作業中ずっと関係ないことを考えたり空想したりするのが楽しかったので、本当に向いていました。

秋には周りの友達はみんな就職先が決まっている状態でした。
それでも不思議と焦りはありませんでした。

2月になり、私は就活再スタートのために東京に行きました。

私に部屋を貸してくれる友達は、2月~3月にかけて海外旅行に行くということで、自由に部屋を使わせてもらえました。


早い段階で大企業への就職が決まって海外旅行に行く友達、卒業間際にまだ就職先が決まってない崖っぷちの私…と書くと私のやばさが際立つけど、焦りはありませんでした。
ちょっとぐらい焦れよって思うぐらい焦らない奴でした。

そして2月からの就活は、2週間以内にあっさり決まりました。
1社だけ受けて、その1社から内定が出ました。

夏まではあんなにたどたどしい面接の受け答えしかできなかったのに、2月にはすらすらと自己アピールできるようになっていました。面接の練習をしていたという訳でもないのに…

就活だ…と暗い気持ちにならず、それまでの時間を楽しく過ごして、「絶対に卒業までに受かるぞ」と自信を持っていたので、それが好印象に見えたのかもしれません。
夏までは自分をよく見せようとしすぎたのかもしれません。
内定が出たところでは、リラックスして素の自分が出せました。

競馬はギャンブルだからイメージが悪い、と思って今まで言わなかったけど、その会社の面接では「競馬好きで遠征してるんですー」と素直に言っていました。
すると社長が「へ~そうなんだ。会長は馬主やってるよ。会長が聞いたらきっと喜ぶなあ」と終始なごやかなムードで面接ができました。

このときの体験があったので、その後転職で何回か面接を受けた際も、素の自分を出すことにしました。
すると不思議と落ちる気がしなくて、実際に落とされたことは一度もありませんでした。(転職先はすべて正社員ではなく契約か派遣なので、受かりやすいというのもあります)

ということで、なんとか卒業までに東京で正社員になる、という夢は叶いました。
なんでもある、流行の最先端・東京で暮らせるなんて夢みたいでした。
できれば東京で結婚して、東京で一生過ごしたいと考えていました。

その一方で、海外で暮らすことになってしまうんじゃないか、という予感もじわじわしていたのがこの頃でした。

ちょうど就活をしていた2月ごろ、私は海外競馬にはまりました。
それまでは完全に日本競馬しか見ていなかったのに、海外のかっこいい騎手を好きになってしまいました。

調べれば調べるほど、海外の素敵な騎手たちにはまっていきました。
思えばそれが、1つのターイングポイントです。

趣味の方で転機が起こっている最中、無事引っ越して東京での就職もスタートできました。

私の大学時代は、勉強ではなく「真剣に好きなもの(競馬)を追いかけるということ」を学ぶ4年間でした。

【上京失敗、即退職。でも前向き】

あっさり決まった就職先ですが、あっさり5か月でやめることになりました。

理由は眼精疲労による頭痛や吐き気といった体調不良です。
大学時代にレーシック手術をして以来、画面酔いや眼精疲労の症状はありましたが、就職して毎日8時間パソコンとにらめっこする状況になって、症状がものすごく悪化しました。

会社を休むほどひどい頭痛が数日続いたときに、こんなにしんどいのは耐えられんと思って退職の旨を伝えました。


体調的にきつく、いつまた就職できるかわからない不安定な状態で家賃を払い続けるのは厳しかったので、その会社をやめて大阪の実家に戻ることにしました。

せっかく憧れの上京ができたのに、引っ越し代も高かったのに、まだ全然都会で遊んでないのに、もう東京で働くチャンスはないのかな、と色々な思いがこみ上げてきました。


職場のみなさんが「せっかくがんばってたのにね。残念。またいつでも戻ってきてね」と優しく送り出してくださったことが尚更つらく感じました。本当に良い職場だったのになと…

そうして私は新卒で入った会社をやめて、何も得られないまま地元に戻りました。
母には「あっという間に帰って来たね」と言われましたが、あたたかく迎え入れてくれました。

新卒カードを無駄にして、すぐに辞めた社会人経験の少ない人間なんてどうやって再就職するんだ、と悩むところかもしれませんが、私は「もう正社員になるのは諦めよう」と気持ちを切り替えました。

実家暮らしなので、それほど稼がなくても生きていけます。
それにそのころ私は例の海外競馬に夢中になっていて、「こうなったらちょっと働いて、来年はヨーロッパに3ヵ月ほど滞在しよう!」と楽しいことを考えていました。

実家でゆっくりリフレッシュしたら、また就活をスタートしました。
パソコン仕事が本当にダメになっていたので、オフィスワークでなく、得意な軽作業系の仕事を探しました。

契約社員という形で、すぐに軽作業系の仕事が決まりました。

ピッキングや出荷作業がメインの仕事で、ここでも私は超スピードを発揮して、ピッキングのエースになっていました。


就活のときに事務処理能力テストをしてトップクラスの得点を出したので、客観的に見てもやっぱり私の作業スピードは尋常じゃないんだとわかりました。

ピッキングは、数百あるアイテムの中から、リストに書かれたものを集めてくる仕事でした。
私は数字を暗記するのも得意だったので、数百のアイテムナンバーを覚えていて、棚番を見なくてもどこに何があるのかすぐに見つけることができました。
考えなくても体が勝手に動いてるような、まさにロボットのような働きっぷりでした。

そのスピードの代償に、社内の誰よりも作業が雑という難点もありました。
支障が出ない、問題が起きない作業に関しては、思いっきり雑にやっていました。


社内書類のサインなどは誰にも読めない字で書いていたので「この読めない字はまるおさんだね」という風に判別してもらっていました。

丁寧さよりスピード重視でやっていましたが、そうしないと深夜まで仕事が終わらないブラック企業で働いていたので、私のハイスピードは喜ばれました。


雑でスピード重視ながら、絶対にミスしてはいけないことはミスしない正確さもあったので、ミスして社外に迷惑をかけるといったことは、3年働いて一度もありませんでした。

この職場はとても忙しく個人プレーの仕事なので、人のペースに合わせず人の顔色をうかがわず、自分のペースでできたので私には合っていました。

【趣味>仕事の生き方、ついに本領発揮】

しかし、そんな自分に合った仕事を約1年で一旦やめることになります。


理由はもちろん競馬。
ある日、当時私の一番好きだったアイルランドの騎手が突然今年いっぱいで引退する、と発表しました。

その1週間後、私はアイルランドにいました。

いきなり引退を発表されたので、こっちもいきなり行くしかありませんでした。
その年の春に、はじめての海外旅行(競馬)をしていたので、幸いパスポートを持っていてすぐに出発できました。


いつかアイルランドに行くと決めて、毎日オンライン英会話レッスンを受けていたので、なんとかなる程度の英語力もありました。
アイルランドに行くと決めてからアイルランドのことを調べまくっていたので、入国手続きからホテル探し、電車の乗り方などすでに知識はありました。

「準備はしっかり、しかし決断するときは素早く」

私はその後2か月間アイルランドに滞在し、その騎手の引退までのすべてのレース(イギリスやフランスでのレースも含め)を見に行きました。
その騎手にとって最後の勝利となったレース後には、勇気を出して声をかけ、手紙を渡して写真を一緒に撮ってもらいました。

ずっと憧れていて、日本では深夜にもかかわらず、リアルタイムでその騎手の全レースを見ていました。
最後の2か月間は現地入りして全力で応援して、本人と写真を撮ることまでできました。
すぐに行動を起こさなかったら、一生「あのときアイルランドに行っていれば…」と思い続けることになっていたと思います。
この経験から、とにかく行動することの大切さを学びました。

アイルランドから帰ってきた私は、前の職場に「また働かせていただきたいんですが」と連絡を取りました。
いきなりやめた手前ダメ元でしたが、私の働きぶりがよかったためか、復職できました。

冷たい態度を取るでもなく、また私を優しく迎え入れてくれた職場の方々への恩を返すため、それまで以上にフルパワーで働きました。
いつしか人間のピッキング速度を越えて、リストのアイテムナンバーをいちいち確認せずともパッと見で必要なものを集めてこられるほどになっていました。

その後海外と日本を行ったり来たりする生活が何年か続く。

一度海外生活を経験するとリミッターが外れて、「仕事の合間に海外に行く」ではなく「海外滞在の合間に日本で働く」という形になっていきました。

仕事をやめる理由はいつも「これから海外に行くから」です。
せっかく仕事に慣れてきたのに、良い職場なのに、と未練がないこともないですが、仕事をやめて海外に行ってまた日本に戻ってきたときに、選り好みしなければ働き口はあるから大丈夫、と考えていました。

そうしていくつかの会社を転々としましたが、どこにいっても変わり者として扱われました。
たしかに考えてみれば、「先週は1人でドバイに行ってました」「来週は競馬場で再来週は落語です」とか言ってる20代女は普通に変。

そんな私を「本当にまるおさんって面白いよね」と、好意的に受け入れてくれました。
どこの職場でも優しい人たちに囲まれて、人にはとても恵まれていたと感じます。

小中学時代は浮いていると目をつけられるけど、社会に出ると真面目にきちんと仕事をしていれば、多少人と違っていても、ちゃんと受け入れてもらえることがありがたく感じました。

新卒で入った会社はパソコンワークによる体調不良でやめることになりましたが、その後3年ほど軽作業ワークを挟んだあとは、またオフィスワークができるようになりました。
1日中パソコン仕事ではなく、庶務的なファイル整理などの仕事もあるようなポジションなら、問題なく働けました。

オフィスワークに戻ったのは、長く仕事を続けたい場合、自分の体力・特性を考えても、接客業ではなく事務員のような仕事の方が合っていると感じたからです。

10分に1回は目薬を差すし、今も目、首、肩は何をしていてもずっと痛い状態ですが、それでもパソコン(スマホ)を使った働き方をしたいと考えています。
今はフリーランスなので、多少パソコンが必要な場面はあっても、毎日8時間キーボードを打ち続けるような作業はないので、ひどい体調不良になることもありません。

【夢の国・アイルランドでワーホリ編】

2017年末には、念願叶ってアイルランドにワーキングホリデーに行くこととなりました。

そのころには、前述の好きな騎手は調教師になって活躍しており、私も好きな騎手は他にたくさんできていたので、ぜひともまた生で見たい、競馬場に通い詰めたいと思っての1年間のワーホリでした。

アイルランド競馬は、毎日のように全国各地で行われており、目当ての馬や騎手がいつどこで乗るかは前日に発表されます。
そのため、アイルランドでバイトのシフトに入ることはできず、全く働かずに1年間滞在できるだけのお金を持って行きました。

おかげで1年間ひたすら全国各地の競馬場を飛び回って、場合によってはフランスやイギリスの競馬場にも行き、思う存分楽しみました。

アイルランド競馬の良いところは、関係者とファンの距離の近さです。
1年間競馬場に通って、写真を撮っているアジア人は相当目立っていたようで、騎手みんなから顔を覚えられているような状態でした。


Twitterに撮った写真をあげていたので、たくさんの騎手や調教師、馬主からフォローされ、好きな騎手から「昨日僕が勝ったレースの写真撮ってたよね?ちょうだい」とDMが来ることもありました。
パドックで馬を曳いている知らないおじさんから「今日の昼間あのショッピングセンターにいたでしょ!」と言われることや、競馬場スタッフに「いつも来てるね」と声をかけられることもありました。
競馬サイトを営んでいるという人から「うちの専属でカメラマンをしないか」と声をかけられたことも2回ほどありました。

日本競馬を知っている私からすると、関係者がフレンドリーに向こうから接触してくるなんて、通常ありえないことです。
でも、アイルランドではそれが当たり前でした。
私に限らず、観客のおじさんが親しそうに関係者としゃべっている姿は何度も目撃しました。

日本は公正競馬を重視しているので、ファンと関係者が気軽に話せてしまうと八百長的に問題になります。
関係者の立場としても、ファンとの交流が少ない方が仕事に集中できるでしょうし、日本のあり方が間違っているとは全く思いません。
でも私個人としては、ファンと関係者の垣根が低いアイルランドの競馬界にとても魅力を感じました。

私はかなりの行動派なので、行動すればするほどうれしいことが返ってくる、という環境は最高でした。

競馬場で人に積極的に話しかけることで、前述の元騎手(現調教師)の厩舎の見学ができたり、大好きな騎手に競馬場からバス停まで車で送ってもらったり、その騎手の家族に名前を覚えてもらってあちらから話しかけてもらえるようになりました。
どれも日本ではありえない体験で、それらすべてに感動を覚えました。

競馬の関係者・ファン問わず、アイルランド人は本当に親切だと感じる経験もたくさんありました。
アイルランドで出会う日本人の方々もみなさん優しく、困ったときはいつでも助けてくれました。
自分が積極的に話しかけて行動することで、助けてくれる人が増えて活動しやすくなっていきました。

また、「悪いことが起こったら、そのあとに良いことがあると信じて行動する」ことの重要性も感じました。

あるとき、イギリスで乗っている好きな騎手のレースを見るために渡英しました。
するとその日、天候不良で開催中止となりました。
私は目的を失って、イギリスの空港で数時間立ち尽くしました。


ここでとんぼ帰りしては得るものが何もない、ということで私は帰りの飛行機をキャンセルし、その騎手のレースを見るまで帰らないことにしました。
それだけにとどまらず、その騎手の所属厩舎を見学したい、と厩舎宛にメールをしました。

その結果、厩舎見学ができてそのときに好きな騎手と会話でき、レースもちゃんと見ることができました。
本来なら、レースを見て満足して帰るだけだったところが、開催中止という不運によって、もっと大きな喜びを得ることができたのです。

開催中止を知ったとき、「私がそんな不幸な目に遭うはずがない。これは逆にラッキーなことのはず。そうだ、厩舎に見学できないか聞いてみよう」と考えました。
それは、私の「転んだらタダでは起きない精神」と、「逆にラッキーだと考えるポジティブな発想」、さらに「良いことを引き寄せるための行動力」によって得られたものです。

「考え方と行動次第で、不幸も幸運に変わる」
そう強く感じた経験でした。

アイルランドワーホリ期間は、間違いなく人生で一番楽しかった1年です。
そのときに、のちに夫となる人にも出会いました。

実はワーホリに行く前にも、人気の占い師さんに占ってもらいました。
ワーホリでトラブルは起こらないか、良い出会いはあるか、といった内容を占っていただきました。


「大きなトラブルは起こらない」「何かあってもたくさんの人があなたを助けてくれる」「あなたの理想の人は理想のタイミングで現れるから心配しなくていい」ということを言われました。
私はその言葉を聞いて、安心して旅立ちました。
実際にその占い師さんがおっしゃった通りになっているので、改めてすごかったな、と感じます。

【結婚してアイルランド移住 or 日本永住。悩んだ末に…】

私はワーホリに行く前、アイルランドに永住したくなるのか、1年行ったら気が済むのかわからない状態でした。

でも、実際にアイルランドで生活してみて、日本ではできない楽しい経験をたくさんしたことによって「もっとここに長くいれば、もっと楽しいことがいっぱいあるかもしれない。競馬カメラマンにだってなれるかも!」と考えるようになりました。

好きな騎手や関係者に認識してもらえるのが、自分にとってすごくうれしいことでした。
学生時代はずっと「目立つのは嫌だ、目立ってはいけない」と思っていたけど、アイルランドでの生活を通して「目立っていいんだ、本当は目立ちたかったんだ」と気づきました。

実際アイルランド人なんて、私の何倍も行動力があって、物怖じせず自分からがんがんコミュニケーションを取りにいきます。
私の行動力は日本人の中ではたぶん高い方で、相手に迷惑かけてるんじゃないかと遠慮がちになることもあるけど、アイルランド人に比べたら私の行動力(ずうずうしさ)なんてかわいいもの…

アイルランド人を見ていると、仕事はさぼるし遅刻するし、いい加減なところはあるけど、仕事より好きなこと(平日に競馬の大レースを観に行ったり、長期休暇をとったり)を優先している点は、私の生活スタイルに似ているなーと思ったり。

当時付き合っていた現夫からはプロポーズされていたので、アイルランドに永住することは可能という状況でした。
でも私はワーホリから帰ってきて日本で働いているときには、まだ結婚する踏ん切りがつきませんでした。

夫がどうとかではなく、「本当に一生アイルランドに住むことが自分にとっていいのか?」というところで悩みました。
私は日本のごはんや漫画やゲームや便利さが好きだし、病院通い(アトピーと喘息がひどくて毎週病院に通ってた)だし、アイルランドに1年住んで不便なこともたくさん経験しました。

「自分にとって本当にアイルランドは生きやすい場所なのか?」ということを、いつまで考えても答えは出ませんでした。

そんなときに頼ったのが、またまた占い師です。
その方は私の地元で霊視占いをしている方でした。

「今の彼と結婚してアイルランドに住んでもいいのか」という内容で占ってもらいました。


すると、「あなたは日本よりアイルランドの生活の方が合ってる。それにこの彼はあなたの運命の人で、一番あなたを幸せにしてくれる人やからねー」と言われました。
その言葉を聞いて、「やっぱり私ってアイルランドの方が合ってるのか!」とうれしくなりました。
うれしくなったということは、心の底ではアイルランドに住むことを自分は望んでいたんだなと。

今の夫が私の運命の人だと言われたのにもびっくりしました。
そんな風には思ってなかったけど、「すごく強い縁で結ばれてるからね。どうやったって出会ってたはず。奇跡的な出会いだったでしょ?」と言われて、たしかに意外な出会い方はしたよな…と。

その言葉だけでは本当にこの人は視えているのか?と疑問を感じるところだけど、私が伝えていない過去の話などすべてぴたりと言い当てられたので、信じるしかありませんでした。
こんな人が存在するなんて、と本当に不思議な思いでした。

ともかく、私はその占い師さんを信用し、結婚してアイルランド永住することに決めました。
占いを受けていなかったら、正直今の夫と結婚していなかったのでは、と思います。
当時はどちらかと言うと日本で生きていく方が正しいのでは、と考えていました。

なのに占い師さんの一言で、こうして今アイルランドで暮らしている。
あのときその方に占ってもらったこともある意味運命だったのかも、と感じます。
「なんで日本人の私の運命の人がアイルランドにいるの?ふつう出会えないでしょそんなん」とも思ったけど(笑)

【アイルランド永住ルート突入】

こうして私はアイルランドに移住しました。

ワーホリしたことが人生の中で最も貴重で大切な思い出として、一生胸にしまい込んだまま日本で生きていくのだろう…と切なく思いながら終えたワーホリ。

今やアイルランドが私の生活基盤で、いつでも好きなときに大好きな競馬を見に行ける。
多少の不便はあっても、今の生活がとても幸せです。

好きなときに競馬に行くために、アイルランドではフリーランスとして自分のオンラインショップの運営をはじめました。
日本にいたときはずっと会社員だったので、フリーランスという働き方の自由さにびっくりしました。


そしてこれこそが、私の求めていた働き方だと感じました。
もしずっと日本で暮らす人生だったら、私はたぶんフリーランスになっていない。
自営業なんて難しそうだし稼げなさそうだし不安定だし、派遣でそれなりに給料がもらえるので、わざわざ困難な道に進む理由なんてない、と考えるはず。

けれどアイルランドで生きていくという状況になったときに、自分の自由が制限される働き方は絶対にしないぞ、と決心しました。


バイトした方がいいんじゃ…という迷いはありませんでした。
「日本からは手の届かなかった、大好きなアイルランドの競馬場が徒歩圏内にある環境にいて、仕事のせいで行けないなんてことは絶対あってはならない!仕事のために生きてるんじゃない!好きなことをするために仕事するんだ!!」

フリーランスはすべてが自分の手にゆだねられているので、それゆえに大変なこともたくさんあります。
それでも好きなことのためだから、とがんばれたし充実していました。

【コロナめ…そして占い師になった】

そんなときにコロナ禍です。

やっとオンラインショップの運営が軌道に乗ってきたところ。
私の仕事はもろにコロナの影響を受けました。

商品の買い付けや発送が難しい状況になりました。
しっかり対策をすればなんとかなったのかもしれませんが、もともとその仕事自体、情熱を持ってやっていた訳ではないので、悪い流れになっていきました。

物販はフリーランス初心者でも稼ぎやすいビジネスモデルだから、という理由でやっていたので、自由な働き方は気に入っていたしお金が入ってくればうれしいけど、「自分は今、やりたいことを仕事にしていない」と気づきました。

このときも、私は例によってポジティブに考えました。
せっかく上手くいきそうだったオンラインショップの売り上げが0になった。
一見最悪の状況に思えるけど、そのおかげでこの仕事には興味が持てないことに気づけた。
今が本当にやりたいことを仕事にするべきときなんじゃないか?

ロックダウンで家から出られず、仕事も止まっている間、そんなことをずっと考えていました。

そうしてたどり着いた答えが「占い師になる」ということでした。

占い師は私にとってあこがれの仕事だけど、特殊能力のない自分には無理だ、と最初からあきらめていた職業です。
でも、フリーランスとしての働き方について模索していた時期だったこともあり、素直にチャレンジしてみたいと思いました。

そこでまた占い師に相談です。
今回は結婚について占ってくださった方と、もう1人別の方の2人に鑑定依頼しました。

「占い師になろうと思うのですが、向いていますか」と尋ねました。
すると、「すごくいいと思う。人気になってる未来が見える」と、どちらの方からも言われました。

聞いておきながら、霊感ないのにいけるの?とまだ半信半疑な私。
私は幽霊を見たことがないし(霊現象にあったことはある)、未来が見えるといった不思議な力もない。

「私は霊感とかないんですけど」と言うと、占い師さんは「あなたはハイヤーセルフとつながっている」とおっしゃいました。

ハイヤーセルフとは、高次元の自分の魂のことで、自分のことを見守ってくれて良い方向に導く存在です。
ハイヤーセルフとつながると、直感で自分にとって一番幸せな選択肢を選ぶことができたり、自分のやりたいことが周りにも良い影響を与えて、人生をより良くすることができるそうです。
私がその状態だと言われても、あまりピンときませんでした。

けれど思い返してみると、これまで出会った占い師さん全員に「あなたは直感が鋭い」「霊感が強い」「占い師に向いている」「なんとなくこれがいいと思って選んだら、いつも上手くいってきたでしょ?」というようなことを言われていました。
それが直感力、いわゆる霊感があるということだったんだな、とわかりました。

霊感がなくても占い師にはなれるし、私は霊視なんてできないけど、それでも霊感がある・スピリチュアルな力があるとお墨付きをもらえたのは、自信につながりました。

私の母は霊感があって幽霊が見え、祖母はさらに強い霊感があるので、私もその力を受け継いでるんだ、とうれしくなりました。
手相占いで、霊感の強い人にあると言われる3つの線すべて私は持っていました。
それでも実体験として、自分に不思議な力があると感じたことはまったくと言っていいほどなかったので、この力は占い
師として何か役に立つのだろうか…と疑問でした。

しかし、実際に占いをしてみると、不思議な力を感じることが起こります。

【占い師見習い編。なぜか当たる】

信頼する占い師さんからぜひやってみたら良い、と背中を押していただけたので、ちょうどその少し前に遊び用に購入していたタロットカードを使って占ってみることにしました。

やってみると楽しくて、夢中になりました。
不思議と当たっていました。

タロットは絵柄から意味を読み取るツールで、カードの並びからどういうストーリーが展開されているのか考えて、相談内容への結論を出します。
物語を考えたり、ものを作るなど、創作することが好きなので、絵柄やカードの並びから独自の感性で読み解いていくことは、創作活動をしているみたいで、本当に楽しくて自分に合っていました。

家族や友達を占うと、これがまたどういう訳か当たっていると良い評価をもらえました。


私自身が知らないその人の情報がカードに表れて、そのことを伝えると「実は言ってなかったけどそうなの」とびっくりされることが何度もありました。

未来のことに関しては、当たっているかどうかわからなかったのですが、数か月経ってから「あの占い結果通りのことが起こった」と報告してもらうこともあり、「本当に当たってるんだ…」と自分でもびっくりしました。

「当たっている」と言われること以外にも、カードを混ぜて並べたときに不思議な偶然はたくさん起こりました。


たとえば「仕事のこと」について何人もの人を占っていると、ほとんど全員の現状に関して「トラブル発生」という同じカードが出ました。
あまりにも何度も出るので、「これってたぶんコロナのことやろ…」と途中で気づきました。
その頃はコロナによって仕事に影響が出ている人がほとんどだったので、みんなに「今はトラブルが起こっている」というカードが出ていてもおかしな話ではありません。

また、「私は占い師に向いているのか?」ということを、質問の仕方や占う日を変えて何度か占ったら、毎回絶対に同じカードが出ました。
「すべてうまくいく、天があなたの味方」という意味の「太陽」のカード。
これはスピリチュアルな意味合いがとても強い、すごくポジティブなカードです。
78枚の中から偶然同じカードが何回も出たんだ、と考える方が不自然なので、本当に私はスピリチュアルな力を使ってカードを引いているのかも、と感じました。

ちなみに、「まるお月美」という名前は占い師名です。
開業前に姓名判断などを使って、この名前を考えました。

私の誕生日は、毎年夏至の当日か前後になります。(今後数十年はずっと私の誕生日が夏至の日とのこと)
夏至は、1年で一番「太陽」が出ている時間が長い日。
スピリチュアルの世界では、夏至と冬至は1年で一番スピリチュアル(宇宙)エネルギーが高い日だと言われてます。
そんな日に生まれたから霊感が強いんじゃないかと思ったり…

その件と、さきほどの「占い師としての私を表すカードは太陽」ということ、ポジティブになれる占いをモットーとしていることから、(こじつけですが)私は「陽」の気を多く持っているのではないか?と思いました。

占いの世界では陰陽の考え方があって、「陽」の気が強すぎても「陰」の気が強すぎても良くないとされています。
陰陽のバランスをとるために、占い師名に「陰」の気を持つ「月」という言葉を入れました。
単純な発想でつけた名前ですが、やわらかく優しい響きが気に入っています。

占いをすること自体も楽しいですが、「当たってる!」「ありがとう。前向きになれた」と言ってもらえることがとてもうれしかったです。

今までも仕事の中で「ありがとう」と言われることはあったけど、それとは違った喜びがありました。
私の占いによって救われたり、悩みが解消したり、前向きになれる人がいる、ということが、この上なくうれしく思いました。

夫の身内とは言語の壁もあり、あまり親しく話すことはこれまでなかったのですが、占いを通して話をする機会が増えました。
アイルランド人は占い大好きなので、みんな興味を持ってくれて、やっと家族の輪の中に入れてもらえたように感じました。思わぬ副産物です。

また、会社員時代の職種は占い師という仕事に関係ないかと思いきや、フリーランス占い師のため、サイト開設や発信といったパソコンを使った作業があるので、パソコンに慣れていて良かったです。
相談者さんの大切な時間を無駄にしないよう、素早い決断力で結果を出すことができるという点も、役立つスキルだと感じています。

数十人占っているうちに、友達の友達、といった面識のない人を占う機会も増えていきました。
私にとって、前情報がないそういう方々は、プロになったときのお客様に近い感覚で占えたので、勉強になりました。
私は人見知りタイプだけど、占いのような1対1の場だと緊張しないし、会話をすること自体は好きなので、色々な人と個別でお話ができるだけでも、純粋に楽しかったです。

まだプロでもない素人占い師の私を信用して、他人に言いづらい悩みを打ち明けてくださった方もいました。
そして占い結果を真剣に聞いて、私がうれしくなるような感想もくださいました。
さらには、「次はお金を払うので、また占ってください」と言っていただけることもあり、そういった言葉は本当に自信とやる気につながりました。
(その当時は占い師見習いということで、身近な人に無料でオンラインタロット占いに付き合ってもらっていました)

身近な人を占ったり、本や動画で占いの勉強をするのと同時に、フリーランス向けビジネスサロンでビジネスの立ち上げ方について学びました。
私はアイルランドに住んでいて、日本人の方を占いたいと考えていたので、占い会社に所属するという選択肢はなく、最初からフリーの占い師として開業予定でした。
全部自分で1から作り上げないといけないので、ビジネス面についてはしっかり講義を受けて学びました。

そういったサロンに入っていることもあり、海外在住日本人の方と知り合う機会も多く、その方たちも占わせていただきました。
今は無料で世界中の人とビデオ通話ができるので、私のように海外で日本人向けに占い師をすることも難しくありません。
便利な世の中になりました。

【令和占い師ならではのメリットとは】

占い師の経験としては、その道何十年のベテラン占い師に敵うほどではありませんが、私だから救える方がいる、私に相談したいと思って来てくださる方はいるはずだ、と思っています。

たとえば、私と同じく海外在住の方、国際結婚をしている方、またはその予定のある方。

海外生活や外国人パートナーとの関係についての悩みは、日本在住占い師より、私の方が手に取るようにわかって適切なアドバイスをすることができるのではないか、と感じます。

海外在住の日本人占い師はそれほど多くありません。

「海外在住者も受け付けます」という日本在住の占い師はいますが、もし私が占ってもらう立場なら、自分と近い境遇の人を選びたいです。

海外生活や国際結婚というのは、実際にやってみないとわからない苦労がたくさんあります。

外国人として海外で暮らしていると、孤独も感じます。

周りに気兼ねなく相談できる日本人の友達がいないこともあります。

帰国の時期で悩んだり、子供をどちらの国で育てるのがいいか悩むときだってあるかもしれません。

外国人パートナーの日本人とは違った気質に振り回されて疲れることもあります。

だから私が占ってもらうなら、自分の気持ちをより深くわかってくれそうな、海外在住占い師に相談したいです。

でも、探してみると見つからない。

仕方ないから日本在住占い師さんに電話占いをしてもらおうとしても「海外からの電話は不可」と断られてしまう。

私自身、海外から日本人の方に占ってもらおうとしたとき、苦労しました。

でも私のように、海外に住んでいながら日本人の占い師さんにみてもらいたい、という方はたくさんいると思います。

私はそういう方々の助けになりたい。

そう思って占い師になりました。

オンライン占いなら、忙しい方でもわざわざ出かけずにおうちで気軽に、世界中どこにいても受けられます。

困ったとき、悩んだときに「そうだ、まるおに相談してみよう」と思っていただけるような占い師でありたいです。

私自身はここまで書いてきた通り、大学受験前、ワーホリ前、結婚前、占い師になる前、という人生の岐路に立ったとき、いつも占い師さんを頼ってきました。

占い師さんに相談することで、問題がクリアになり、悩まず前に進むことができました。

そして、そうやって選んできた選択肢に後悔はありません。

もし占いを受けていなかったら、いつまでも悩んだまま動けなかったり、後悔するような道を選んでいたかもしれません。

人生の道しるべを示してくださった占い師の方々には本当に感謝しています。

そして私も「相談者さんの心が軽くなるような、前向きになってもらえるような占いをする」ということモットーにしています。

自分が占いを受けたときに、落ち込むようなことを言われて、後味の悪い気持ちになった経験があります。

それは嫌な記憶として自分の中に残っていて、たとえ当たっていようとも、それは私にとって満足できたとは言えません。

なので私は、たとえ相談者さんの望まない結果が出たとしても、「今のまま進むと良くないと出ているけど、このアドバイスカードによると、~という行動をすれば、未来は変わるかもしれない」と、なにか前向きになれる伝え方をするように心がけています。

私はもともと楽観的な性格だからということもあるかもしれませんが、これまでの実体験から「悪いことが起こっても、考え方や行動次第で良い未来は訪れる」と信じています。

だから、たとえ今とてもつらい悩みを抱えている方であっても、鑑定を受けたあとは少しでも心が軽くなって、前向きな考え方や行動ができるようになってもらいたい。

私は相談者さんにとって、家族や友達ではない第三者という立場ですが、だからこそできることがあると思っています。

私は社交的で広い交友関係があるというタイプではなく、狭いコミュニティの中で数人の友達と仲良くするタイプです。

なので、どちらかと言うと、自分のそばにいてくれる1人1人を大事にして、その人のためならいつでも助けになりたいと考えています。

たくさんいる占い師の中から私を頼って相談に来て下さる方は、私にとって全力で手助けしたい大事な人です。

たくさんの占い師の中から私を選んでくれた人のことは、私も「たくさんいる相談者のうちの1人」だとは決して思いません。真摯に相談者さんに向き合います。

暑苦しく思われるかもしれませんが、お金を払ってまで相談に来てくださる方に対して失礼にならないよう、私も真剣に毎回鑑定をしています。

堅苦しい雰囲気で鑑定しているという意味ではないです。

むしろ(いい意味で)気が抜けるぐらいリラックスした雰囲気に感じられるかもしれません。

「この前はああいう伝え方をしたけど、もっと良い伝え方があったかもしれない」と、日々より良い鑑定を提供できるように考えて、勉強して、改善しています。

占い師のことが信用できないと、プライベートの奥深いことまで開示できないと思います。

だから、相談者さんが自然に悩みを打ち明けられるような占い師になるための努力は、これからもずっと続けていきます。

西洋占星術において、私の今世での使命は要約すると「伝えること。人に尽くすこと。女性と長時間関わる心理系の仕事をすること」だそうです。

占い師という仕事は私にとって、心から望む天職であると感じています。

占い好きの方はご存知かもしれませんが、アイルランドは世界的に有名なスピリチュアル大国・ケルト文化の国です。

(タロットカードで一番メジャーな「ケルト十字」という展開方法がありますが、そのケルトです。)

スピリチュアルな力に引き寄せられて、私は今この国で占い師をしているのかもしれません。

アイルランドという土地の神秘的なエネルギーを借りながら、楽しくこれからも占い師を続けていければと思います。